なんだか苦しい。
なんだかつまらない。
何か大きな問題が起こっているわけじゃないのに・・・
なんて気持ちを考えてみた。
FIREしてみたらつまらない。
定年退職したら、がっくりと気持ちが落ちてしまった。
何も問題ないはずなのに、満たされない・・・
そんな気持ちを考えてみた。
今の答えはシンプル。いずれ答えは変わるかも、だけど。
人の評価を気にすると、楽しめない。
本当は、
自分が楽しいことをすればいいだけ。
楽しいことがなければ、何かしてみて、探せばいいだけ。
探したくないなら、ぼーーっとしていればいいだけ。
子供の時は、わかっていた気がする。
だけど大人になると、そんなことができなくなっている。
どうして?
生活のために稼がなくてはならないならば、楽しんでいる時間と余裕がない。
それは、当たり前。
私もそうだった。
お金持ちに生まれたかった。
そんな妄想は意味がないから、とにかくがんばって稼いで、家族とともに、生きていく。
だけど、その必要がなくても、
自分のために時間がたくさん使えるようになっても、
自分のために常識的な金額ならば使えるようになっても、
何かがのしかかって、なんとなく重い。
楽しめない・・・
人の評価を気にしている?
そんなことない。
そう、それも嘘ではない。
だったらどうして?
それは、人の評価を気にして生きてきた時間が長かったから。
今、人の評価を気にしていなくても、
しみついているものに気づいて、積極的に洗い流していくことが、
必要なのかも知れない。
人は、生まれた瞬間から承認されたい。
十分に満たされた人は悩んでいないのだろう、と想像する。
けれど、十分に満たされない人も、承認されたかけらの記憶がある。
それが厄介。
承認されるとワクワクしたり、
嬉しかったり、
安心したり・・・
悪い気しない。
評価されると、
そもそも嬉しいし、
社内では、対価が貰える。
お金。
会社員なら、昇給・昇格。
決定権限が増えて、給料も増える。
嬉しい。
自分でビジネスをしている人達は、
評価されることは通常は、儲けにつながる。
自分の製品が、自分のサービスが評価されることは、
当然嬉しい。
承認欲求そのものにつながる。
そういうものを追いかけて生きなくてはならないことが大半だ。
生まれつき、特別な才能があって、人が自然に賞賛してくれる人を除いては。
生まれつき、有り余る資産が与えられて、選ばれる側ではなく、選ぶ側として生きている人を除いては。
私たちのほとんどは、稼いで、生きていかなくてはならない。
であれば、人からなんらかの評価をされなくては生きていくことが困難となる。
そして、そのための情報も世の中に溢れている。
入試で受かるためには・・・まだまだシンプル。
就職するためには・・・評価される自己PRや志望動機を準備する。嘘ではないかも知れないけれど、自分の本音の言葉そのままではないことが多い。
上司や顧客とうまくつきあっていくためには・・・言うべきこと、言うべきではないこと、「大人」という名前の世界戦がどんどん始まっていく。
マネージメント層に上がるためには、こういう考え方をすべき。
前向きとは、起業家精神とは、サーバントリーダーシップとは・・・
全て、悪いものではない。
全て、学びになり、自分を成長させるものをもっている。
そして、競争に勝つ。
大きな競争でなくても、その会社で「生き残る」競争でも、今のポジションにい続ける競争でもいい。
それぞれの必要なものを得る、または、守る競争に負けないため、
取るべき態度をとって、やるべきことをやる。
それを辛いとか、思いながら、同時に、
毎年、「お疲れ様」と給与のベースアップをしてもらった経験、
昇格した経験、
「ありがとう」と言われた経験、
必要とされた経験が、
記憶として積み重なって、人生が重ねられていく。
その、小さくとも事実としての成功体験が私たちの頭の中で、脳内麻薬となる。
だけど、多くの人は、大成功していないので、脳内麻薬の存在に気がつかないことがある。
それどころか、必死で眠いのに満員電車に乗るために起きる朝とか、
上司に叱られた記憶の方をより強く意識したりしている。
比べれば、ネガティブな記憶が多かったとしても、
ポジティブな記憶も、確かに、存在している。
だって、全てがネガティブだったらきっと、続けられていない。
稼がなくてはならない、
そんな長い期間の縛りが無くなった時、
むなしくなったり、
自分が価値がわからなくなったり。
その原因は、そういうことではないだろうか。
十分ではなかったにしても、
他人と比べて小さかったとしても、
評価された記憶、
認められた記憶、
それがある。
そして、FIREしたとき、定年退職した時、子育てなどの自分の役割が終わった時、
意識しないうちに貰っていた餌が、無くなっていることに気づく。
だから労働に戻る?
それでもいい。
だけど、全てにおいて、終わりがある。
健康寿命はいつ終わる?
ずっと頑張ってきた。
だから今、自分が本当に幸せだと感じられる時間を得たいと思っている。
子供の時、私は本を読むのが好きだった。
どうして?
それは、そこに意味づけをしようとしなかったから。
今の私は、正直、意味を求めてしまう。
その本を読んで、何につながるのか。
その時間は、人生の時間と相対して許容されるのか。
果ては、「本当に私は楽しんだのか」なんてことまで。
意味のある時間、意味のある行動、
それはつまり、他人の目とか、なんなら、自分の人生とか自分の行動を見る「自分という他人の目」による評価なのだ。
自分を見る「自分という他人の目」。その評価基準はまさに、これまでの人生で積み重ねてきた、他者に受けるものやべき論であったりして、
幸せとはその対極にある。
意味(他者基準の評価)を考えず、欲しいものを得られた喜び。
意味(他者基準の評価)を考えず、やりたいと思ったことを遣っているときの気持ち。
文章を書くのが好きで、
書いていると楽しかった自分がいた。
だけど、人に評価されるようになると、様相が変わってくる。
読まれる文章とは、と考え始めると、それは他人の評価をとりにいく行動へと、いとも簡単に変化する。
それで評価されれば、承認欲求が満たされて、結果楽しかったり、幸せだったりする。
書いて楽しい。
読まれたら嬉しい。
そこでとどまれば、幸せだと思う。
しかし、一歩でも、「どうして、もっと多くの方に読まれないのか」が始まってしまうと、楽しい世界は色を変えてしまう。
自分基準の思考、という言葉で足りないならば、
それは、
評価されることへの期待をゼロにして、
ちょっとでも評価されたら、喜ぶ、という世界戦なのだと思う。
これから寿命が来るまで、できることならば私は、そんな世界戦で楽しんでいきたい。
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